家族は、「個」の集まり。
夫婦でも、子どもでも、
それまでぴったりと側にいたところから少しずつ離れて、
倒れたらよりかかれるぐらいのギリギリの場所で、
同じ時を過ごしながら、互いに程よい距離を少しずつ見つけていく。
私たちには、そんなちょうどいい空間が必要だ。
よくわからないけど、良いと感じるものは、
やっぱりちゃんと考えて作られていることが多い。
例えば、とある映画のセットは、
実際には映らない引き出しの中まで、
きちんと意味のあるモノが入れられ、作り込まれているのだという。
取るに足らないことかもしれないけれど、
全体を見たときはじめて、それが欠かせないもののひとつであることに気が付く。
19世紀、フランスの哲学者、ポール・ジャネによれば、
時間の心理的長さは、年齢に反比例する為、
人は20歳で人生の半分を既に終えているのだという。
私たちとの距離が少しずつ離れていく、
そんな子ども時代を過ごす空間から、
彼らが無意識的に何かを感じ続けているのだとしたら。
「ちゃんとよいもの」を選ぶ責任が、私たちにはあるのだ。
この模様がなければいいのに。
この素材じゃなければいいのに。
モノを選ぶとき、そんな風に思って、
悩み抜いた末、妥協できずに何年も買わないで過ごすことがある。
「こだわってるね」と言われると、「いや、違う」と思う。
どちらかといえば、つまらないこだわりなど持たず、かろやかに生きたい。
個性的で目立つものを求めているわけでもない。
ただ、普通に納得できるものが欲しいだけ。
なのに、飾り立てなくても魅力のあるものには、
簡単には出会えないことが多い。
自分の半径数メートルの風景は、
視界に入ると嬉しいものがあるといい。
心地がよければ、多分身体も元気になれるに違いない。
そこが、誰かと共同の空間ならばなおさら、
目には見えなくても、感じるものも、
本質的に心地よいものを選ぶ責任が
ひとりひとりにある。
すべての判断基準は、己が幸せかどうか。
それだけ。